STAFF INTERVIEW

創意工夫こそクライミングの醍醐味

代表・堀地 清次

アメリカ・ヨセミテが発祥とされるフリー・クライミングにおいて、日本では70年代~80年代にその黎明期を迎え、国内でも様々なルートが開拓されました。日本で当時最難関の5.11とされた城ヶ崎の通称「タコ」や、新潟県小川山の同5.11「バナナクラック」など、難易度の高いルートに次々と初登を果たし、多くの実績を積み日本のトップクライマーとなったのが、ホッチホールド代表・堀地 清次。まさに日本クライミング界の創成を支えた功労者の一人です。今回のインタビューでは、堀地のクライミングの原点や、日本におけるフリー・クライミングの広がり、そうした中で創業したホッチホールド事業の目的など、幅広く話を聞きました。

堀地が語る、フリー・クライミングの黎明期

(堀地)フリー・クライミングの思想は、アメリカのヨセミテから始まったんですよね。自然保護やエコロジーといった若者の新しい価値観とともに、フリー・クライミングのカルチャーが入るようになってきたのが80年代の始めで、当時僕は高校2~3年生でした。ヨセミテで起こったフリー・クライミングの精神が、雑誌を通じて日本にいた僕たちにも届くようになった。なんだこれじゃないか。これをやろう。当時の若者は飛びついたわけです。そこからはもう一気に、フリー・クライミングの世界にどっぷり。

世界中のクライマーが、ヨセミテの波を受けたと言います。アメリカはもちろん、ヨーロッパ各国、そして日本も。世界中で様々なルート・課題が開拓されるようになりました。彼らは難易度の高い課題を求めて、世界中を回るようになりました。フリー・クライミングの文化が世界中に浸透していったのが70年代後半でした。

(堀地)当時のクライマーは、とにかく世界中を回りました。それも一つのカルチャーで。ドイツのヴォルフガング・ギュリッヒ、アメリカのローンコークとか、フランスのパトリック・エドランテとか、名だたるクライマーたちが、どこの国のどんなルートを制覇したなんて話題が、クライマー同士で交換される。そうすると刺激されます。じゃあ俺もやってやろうみたいな、俺の方がすごいぞっていう。

(堀地)でもそうなってくると、誰が一番すごいのか分からなくなってくる。あそこは難しいと言っても、他のルートと比較できないし、天候などの条件が違えば難易度も違う。誰が一番なのか分からない。だったらちゃんとした競技にして、誰がすごいのか決めようじゃないかというのが、競技クライミングにつながっていった。競技が浸透するのにはだいぶ時間がかかったけれど、僕は割と早くから競技にも参加していました。

競技クライミングにも向いていたという堀地。85年~87年頃には国内のみならず海外の競技にも参加し、実績を積んで行きました。

夢中で登った頃の思い出

フリー・クライミングに夢中になっていた頃、堀地の技術はどんどん上達しました。当時のクライミングというと、厳しい環境での登山の中で、岸壁・氷壁を登る「アルパイン・クライミング」が花形でした。一方で、極力道具を使わないフリー・クライミングの人口が増えてくると、アルパイン・クライマーたちもフリー・クライミングの動きに注目するようになります。

(堀地)一生懸命登っている頃は、ヨセミテには数え切れないほど行きましたね。フリー・クライミングの聖地だから。あるとき、ヨセミテのエル・キャピタンという有名な岩壁を登ろうとなった。ノーズというルートに。僕はその前にヨセミテでも難易度の高い壁にいくつか登っていたから、このルートは簡単だと思っていた。でも初めて登ったときには、違う意味での衝撃というか、死にかけるような思いをしました。

エル・キャピタンは、フリー・クライミングの聖地と言われるヨセミテの中でもひときわ大きな一枚岩で、渓谷の谷床から頂上までの高さは約1,000メートル。フリー・クライミングが世界的なブームの中にあって、当時も連日多くのクライマーが登頂に挑戦していました。

(堀地)6月頃かな。現地に入った頃、まだ雪も溶けてなくて、ずっと天気が悪かった。ヨセミテは比較的標高も低くて天候に恵まれているから、ずっと天気が安定しないのは珍しいことで。ある日、急に晴れた。よし登ろう!となったんだけど、みんなそれを待っていたから、ノーズのルートは大渋滞になっちゃって。

堀地はこれまでの経験と自身の技量から、「ルートもそれほど難しくはないし、30数ピッチ・1回かせいぜい2回のビバーグ」で、登頂できるだろうと考えていました。ところがこの大渋滞で、想定より遥かに時間がかかってしまいます。早々に水や食料が足りなくなってしまいました。

(堀地)ずっと寒かったから、そんなに水は必要ないかなと判断を誤ってね。1日500mlもあれば足りると思ってたんだけど、とんでもない話で。かんかんに晴れて暑くて、1日2Lは必要な条件だった。今日はここまでってボトルに線を引いて、ちびちび水を飲みながら。水を飲まないと、体が動かなくなるんですよね。下からもどんどん登ってくるから、降りるのも迷惑だしね。朝起きると、唇はカサカサでめくれ上がって、手足にも力が入らなくてビリビリして。

2日と見込んでいた山行は4日になりました。最後の日の夜、水も尽きて体力もギリギリです。もう1日は持たないだろうと、仲間と相談して、夜中に頂上を目指すことにしました。

(堀地)もう、喉の乾きが辛くて。食事はまだ我慢できるし、登ること自体は苦じゃないんだけど。ちょっと登ったら、喉が渇いた、ああ喉が渇いたって、本当に苦しくてね。ヘッドライトを点けて、真っ暗の中、登りました。死ぬかと思うような経験は、後にも先にもこれっきりでした。

フリー・クライミングの黎明期からその中にどっぷりと浸ってきた堀地。エル・キャピタンでの大渋滞は、フリー・クライミングが世の中に浸透したことを実感する出来事でもありました。


ホッチホールド創業のきっかけ

1989年、堀地は国産としては初めてのホールドを制作する「ホッチホールド」を創業しました。同年には国内で初めて開催されたクライミングの競技大会「大倉カップ」のウォール制作とルートセッターを請け負います。ホールド作りを始めた経緯について聞きました。

(堀地)日本では当時まだ、クライミングとはどういうものか、決まった形なんてできていなかった。ヨセミテのような場所もないから、谷川岳・穂高岳・剣岳なんかに出かけていって、それぞれ勝手なやり方で岩を登っていたような時代。でも、競技としてのクライミングが少しずつ広がってきたから、その練習に使われる人工壁やホールドが少しずつ使われるようになってきた。

競技が広まるにつれて、どうやったらクライミングが上手くなるのか、クライマーたちは練習方法を模索するようになります。シッカーといって、岩場にセメントで直接ホールドを塗りつけるような方法もありましたが、フリー・クライミングの思想には添いませんでした。そうした中、人工壁や樹脂で作られたホールドが、フランスで使われるようになったと言います。

(堀地)ヨーロッパの選手がどんどん強くなって行くんだよね。競技でもヨーロッパの選手ばっかりが勝つようになって。どうやって練習しているの?と聞くと人工壁だと言う。へぇ、そういうものがあるんだと知って、ヨーロッパから輸入して使ってみた。だけどもそれが、どうもしっくりこないんだよね。形状に工夫がないというか。無造作で、なんというかな、長イモみたいな。

それなら自分で作ってみようと、堀地はホールドの制作を始めました。目指したものは、クライマーを考えさせるようなホールドです。

(堀地)これは一体どうやって掴むのかなって、一瞬悩むようなヤツ。掴み方を探すような。掴み方によっては安定したりしなかったり。形状、大きさ、曲線の与え方を工夫して、クライマー自身に考えさせるようなホールドを作りました。

今では多くのホールドが、堀地が志向したような形状を持っていますが、当時としては画期的な考え方でした。そして、フリー・クライミングの主流は、岩場から人工壁へと移り変わっていきます。

(堀地)ホールドだって、当時は否定的な見方もあった。人工的にホールドを付けるなら、ハシゴでもいいじゃん。自分で作った壁に登るなんて意味がないという。でも僕は、これもひとつのクライミングの未来なんじゃないか、というくらいの気持ちだった。練習用の人工的な壁とはいえ、そこには作った人の考えがあるから、クライミングの面白みを凝縮することだってできるんじゃないかと。それが、あっと言う間に、岩場でやる競技が人工壁に移っていった。本当にすぐでした。

ホールド作りを始めた頃の堀地の思いや考えが、ホッチホールドの原点です。

クライミングの醍醐味は、クライマーの創意工夫にある

(堀地)クライミングの面白さそのものには、変わりがないんです。人工壁であっても、ど真ん中にある価値は変わらない。僕の言った「エクスプローラー精神」というのは、クライマーにとってクライミングを楽しむためにとても重要な要素だけれど、人工壁でもそれを感じられる課題にすることが、僕たちの仕事の肝なんです。

クライミングの醍醐味は、自分の力でなんとか解決しなければならないという部分だと言います。次の一手を登るためには、どんな動きで、どんな掴み方をすればよいのか。その時どんな体制を作る必要があるのか。クライマー自身が試行錯誤の末に解決策に辿り着く過程がクライミングの面白さです。

(堀地)岩場と違うのは、課題があらかじめ設定されている点。そこにはルートをセットした人の意図、つまり正解がある。手順や動きに「正解」に近いものがある。けれどもそれが単純に、「与えられた課題」かというとそうではない。その中に、クライマーが創意工夫して乗り越えられる部分を残しておかなければならない。エクスプローラーの要素を、どうやって課題の中に残しておくのか。自分の中にしかないものを使って、クライマーが自分で解決する要素をどうやって隠しておくか。

ウォールやルートが、どうやったら面白いものになるか。挑戦するクライマーのエクスプローラー精神を刺激し引き出すような課題をいかに作るか。フリー・クライミングの主流が岩場から人工壁へと移った今、そこが一番重要な点だと言います。

(堀地)また昔の話になるけれど、練習用の人工壁が出てきた時に、ヨーロッパの選手がどんどん上手くなったって言ったでしょ。考えてみたら当たり前だよね。一流のクライマーが、課題を作っているわけだから。上手い人のクライミングを、トレースしているわけだよね。だからこそ面白いし、上達するわけです。

ホッチホールドの仕事の肝は、クライマー自身の創意工夫を促し、クライミングの面白さを感じられるような壁や課題を作ることなのです。

設計・施工で気をつけていること

最後に、お客様にサービスや商品を提供する際に日々気をつけていることや心がけていることを聞きました。

(堀地)とにかく面白さを込めること。一方でそれを押し付けないことを、いつもものすごく考えている。お客様からの要望には、僕たち専門家から見ると時に突飛押しもないものもある。でもそれを、できるだけ多面的に検討するようにしている。僕たちには分からない、新しい価値があるかもしれない。僕たちのようにクライミングにどっぷり浸かっている人間には気づけないアイデアがあるかもしれない。もしそういうものがあるなら、決してそれを殺さないように、活かせるものは活かすような提案がしたいと思っています。

プロだからこそ、盲点があるかもしれない。謙虚な姿勢が大事だと言います。ホッチホールドがどういった会社でありたいかという質問にはこう答えました。

(堀地)スタッフは皆、様々な形でクライミングに関わるクライマー。日々本当に一生懸命やってくれている。クライミングにかける思いや、時にはその人生の息遣いまでも、お客様に伝わるような仕事をしてほしい。そうした努力が、形につながるはずだから。

仕事としてやらなければならない業務や、要求された条件を満たすものを納品するのは当たり前のこと。+αの部分だけが価値を生むというのが堀地の仕事に対する信念です。

このインタビューは、2019年の7月に行われました。翌2020年の夏には東京オリンピックが開催され、スポーツ・クライミングでは日本人選手の活躍も期待されています。今後の日本のクライミングは、どのような発展を辿るのか。日本クライミング界の歴史と共に歩んできた堀地 清次と、彼が率いるホッチホールドの今後の活躍に、どうぞご期待ください。